御由緒

   第十六代仁徳天皇六年(西暦三一八年)戊(つちのえ)寅(とら)十月、飽波郷(旧藤枝一帯)の鎮護の神として祀られた志太平野最古の社で、延喜式神名帳にも駿河國益頭群飽波神社の名があります。

  当時、境内の山裾の小石の周りから清らかな水がこんこんと湧き出ており、諸病に霊験があったと伝えられ、人々に命の水を恵み、近くを流れる瀬戸川の水害からも護ってくださることから、湧波(わくなみ)神社 川関(かわせぎ)大明神(だいみょうじん)とも称され崇敬を集めてきました。

  境内地、社領とも広かったと推測されますが、戦国時代、永禄・元亀の戦乱時、武田勢が乱入し、社殿・旧記録などを焼失。時の神主 曽根彦八家定が御神体を守護して難を逃れ、兵乱が治まると山下に小祠を建てお祀りし、その後江戸時代に入り正徳五年、現在の地に社殿が再建されたと伝えられています。

  江戸時代社領除地高三石四斗。 明治六年三月 郷社に列せられ、明治四十年六月には幣帛供進社に指定されました。

  近年では“あくなみさん”と呼ばれ、藤枝のみならず多くの人々に親しまれています。また三年に一度の『藤枝大祭り』では、長唄による地踊りが奉納され、大変な賑わいをみせます。